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我がオフィス(事務所)転々記

2018 / 4 /17

起業して50年、指折り数えてみると自分の主宰するオフィス(事務所)の場所を9回も引っ越しているのです。
その中で得た経験則といえば、ビジネスの成否は結構オフィスの場所(立地)に左右されるものだ、ということです。

50年前の創業は高円寺でした。
たまたま住んでいた駅近のマンションが比較的交通の便が良い所でしたので、余っていた戸板一枚をテーブル代わりにして、後輩達と4人でそれを囲んでスタートしました。
その頃は、早稲田大学デザイン研究会の先輩でもあった大日本印刷の小林邦雄さんのお引き立てで、日本板硝子社の一級建築士向けPR誌Space Modulator編集のお手伝いをさせて貰い、同社安藤頌太郎氏のご縁もいただいて、1970年の日本万国博覧会の案内パンフ印刷の営業用ツール(パンフレット見本)づくりをせっせとやらせて頂き、これが創業当初の売上に寄与するところ誠に大でした。結果的に、私共では日本館の公式パンフレットのデザインを担当させて頂きました。

その頃、わが国の超高層ビル第一号となった霞ヶ関ビル竣工パンフレットのエディトリアルのお手伝いをさせて頂いたのも良き想い出です。霞が関ビルは日本の超高層ビル時代のまさに夜明けとなる記念碑的建築です。

そして、当時つまり1970年に私は拙著「DECOMAS」の取材で、3ヶ月間アメリカ〜カナダ、メキシコなどを取材して回りましたが、その取材旅行の付録として撮りだめた、北米超高層ビルのファサード集が大変人気を博してくれました。この「Space Modulator NO.39」が1971年のPR誌の優秀賞を戴いたりした結果、やがてぐんぐん事務所の仕事規模が拡大していき、住んでいた自宅スペースまで明け渡して、私自身の住まいを引っ越すことに相成りました。
要は、創業期の商売が非常に上手くいっていたということです。


企業広報誌の賞を戴いた「Space Modulator」誌(No.39)

PAOS設立当初は、大日本印刷大阪支社の時津勝造さんのお誘いもあって、大阪にも営業所を開きました。ただ、このオフィスは1年半くらいで東京に引き上げることになってしまいました。変な話ですが、大阪の仕事でも現地で受けるよりは、東京から出かけて行って進める方がクライアントに喜ばれるという不思議な現象があったからです。拠点を東京に一本化して撤収する際、大阪で現地雇用した女性社員:木下香代子さんには東京勤務に変わって貰いました。

やがて一念発起し、オフィスをより都心を目指して、四谷交差点直近の場所に移しましたところ、家賃は一気に約3倍に跳ね上がりました。
そのため、夏の暑い頃などは電気代が勿体ないと言って、お客様の見える時だけ冷房を入れ、それ以外の時間は空調を切り、真夏にも関わらず窓を開け放ち仕事をするような苦行をしていました。これも今となっては懐かしい想い出です。

四谷はどこに出るにも交通至便の場所で良かったのですが、所在地住所が新宿区にあり、イメージ的には交差点の都心側の千代田区の方が良いので、やがてそちらの六番町に移ることになりました。駅からも近く、閑静な住宅街の中にありましたので、ここは本当に良い立地であったと思います。

六番町のオフィスを拠点に、周辺の二番町などにも分室を設け、この頃は全てがアナログ時代でもあり、スタッフの数も50人近くまでなって、規模的にも最大人数になったかと思います。

やがて、ビルのオーナーであった飯田さんのご主人からの持ちかけもあって、それまでは2階建てであった建物そのものを建て直すことになり、敷地も広くなって4階建てのビルになり、その地下から3階までをPAOSの専用スペースにしてもらいました。別の入り口から入る4階はオーナーのご自宅でした。
インテリアデザインは、日本人で唯一の第1回ブラウン賞受賞者であった梅田正徳さんにお願いし、随分贅沢な空間のオフィスで、経済的にはPAOSが最もリッチな時代だったと思います。
そして頼まれるままに、New YorkやBostonにまで現地法人を構えていました。


六番町の(旧)PAOSビルの外観とインテリア

1990年過ぎ、そうしたところに、突如、バブル経済の崩壊という大波が襲ってきます。その頃は対応力をはるかに超える量のクライアントを抱えていたのですが、次々と契約解除の申し入れがあり、急激に仕事の減ったPAOSは、たちまち経営危機に陥りました。
そうした状況下、この後どうしていくべきか?との社員総会を開いていたその場で、将来を有望視して目を掛けていたある若手社員、彼には将来を考える会のメンバーにも入って貰い会社の経理内容など、他の一般社員は知り得ないような情報もインプットしていましたが、その彼が何を思ったのかいきなり立ち上がり、社員全員の面前で、「中西さん、あなたの責任において、50人分の仕事を今すぐに取って来るべきだ」と、何だか英雄気取りよろしくぶち上げたのです。
これには私もビックリしましたが、あまりのことに全社員驚いたのか、誰ひとり寂(せき)として声を上げる人も居ません。

私はこの時期の様々な経験をきっかけに、PAOSというデザイン会社としては比較的大きかった組織そのものを解散する決意をし、辞める社員達はクライアントの仕事を持っていってもいいからと言い、徐々に小規模化を進めていき、その後、二度と50人近くを数えるような大組織のPAOSを実現することはありませんでした。それほど、この裏切り行為は私に「性悪説経営にも心しなければならない」のだとの教訓を残してくれた出来事でした。
それ以降は、プロジェクトごとに、外部のいろいろな分野の人たちとネットワーキングして進める方式に切り替えていきました。PAOSの社名にもなっておりますOS (OPEN SYSTEM) の徹底です。

やがてスタッフ10人以下の小規模所帯になったPAOSは、事務所をかねてから希望の地の一つであった代官山に引越しました。1995年のことです。
代官山のシンボル的な場でもありますヒルサイドテラスが新オフィスでした。こちらのオーナーにも随分親切にして頂き、その後も引き続き規模を徐々に縮小して行った私たちに、分室の用途に新しく建設された新築物件への便宜を計っていだたいたりもしたのですが、知的美的サービスの接客業ともいえる私共にとっては、代官山は交通の便から言って、致命的な問題がありました。


代官山ヒルサイドテラスのオフィス(2階部分がPAOS)

それは最寄り駅である東横線代官山駅には、渋谷発の普通電車しか停まらないということでした。
そのため、オフィスの移転当初こそ、話題の地である代官山ということで、会議の時は先方から訪ねて来て下さったのですが、場所や事務所が分かると、その不便さゆえ、段々こちらの方から出向かなければいけない状況になっていきました。
そうなると都心方面に出るためには一度タクシーで恵比寿駅に出て、JRか地下鉄に乗り目的地に向かわなければなりません。このタクシーワンメーター内の僅かの距離のためではあるのですが、往復タクシーで出入りしなければならず、日によってはその回数が4回に上るということもありましたから、やはり不都合が多いと考え、オフィスを引っ越すことになりました。

そこで取り敢えずはかつて自宅として使用していた渋谷区西原の拙宅を仮オフィスにしてじっくりと新オフィスを探索し、結果、2000年に表参道の複合ビルの一室を借りて会社を移しました。ここは、デザインコンサルティング・オフィスの立地としては、歴代PAOSオフィスの中でも最も利便の良かった所在地かも知れません。
当建物は現在建て変わり、Appleのショウルームになっている場所で、引っ越した当時PAOSは6階にありましたから、富士山まで遠望できる素晴らしい景観でした。やがて友人の伊藤豊雄さんが設計したTOD'Sのショップのビルが眼前に建ち、美しい夕景などを楽しんでおりました富士山は残念ながら眺望が効かなくなってしまいましたが。

そのうち表参道の通り自体が、どんどんファッション街区へと変貌を始め、私共が使用していたビルにも建て替えの話が起こり、2008年に六本木の国立新美術館向かいの高層マンションの26階に引っ越しました。ここも高層階オフィスのお陰で、天気の良い日には富士山が遠望できる良い部屋でした。通勤には駅から距離があり、やや足の便が悪いという問題はありました。

そうこうしている内に、親しい友人から南青山にある改築したクラブハウスを借りてくれないかとの話がありました。見に行ってみると、もともと築40年余の木造住宅だった戸建てを実にセンス良く改装してあって、天井も高い素晴らしいインテリアデザインだったこともあり、2010年にそこに引っ越すことにしました。
しかしこの建物は、私の会社の沢山の資料や書物の荷重が構造的限度を越えてしまったようでした。

そこで、やはり構造的にしっかりした建物に引っ越すべきか?と準備を進めていたところにやって来たのが、あの東日本大震災でした。そして引っ越してきたのが現在のアークヒルズフロントタワーという、赤坂にあるまさにサントリーホールやANAインターコンチネンタルホテルの真向かいのマンション棟の一室です。2011年のことです。

ここに引っ越して来た時、過去10年位はあまりにも引越を繰り返したものですから、スタッフが言ったジョークが「ではまた次の物件を探し始めましょうか?」でした。

そして現在のオフィス、これは森ビルさんの物件なのですが、インテリアやベランダ等のデザインも結構良く工夫されていますし、環境システムのソフト等も、今までのオフィスに比べると、いろいろなサービス面まで含め実に行き届いています。
例えば、お向かいのアークヒルズの最上階にある会員制クラブや付属のスポーツジムなどの会員権が付帯しているなど、よい意味での囲い込み策ともいえますが、なかなかの良策と思えます。


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赤坂オフィスの外観・インテリアなど

あらゆる産業はサービス業化していくと言われますが、その実証モデルを見ているような気分で、取り敢えず私のオフィス遍歴は何か特別の状況変化が無い限り、当面は落ち着いていられそうな環境なのです。

これが私にとって最後のオフィスとなってくれるのでしょうか?



投稿者 Nakanishi : 2018年04月17日 14:45