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桑沢デザイン研究所以来の友人、坂本和正君逝く

2018 / 3 /20

最近は黄泉(よみ)の国に去りゆく友人のことを記すブログが多くなり始め、寂しいのですが、これも私自身がそうした齢(よわい)になってきた故でしょう。
このたび、坂本和正君の永遠(とわ)の見送りをしてきました。
彼は私の桑沢デザイン研究所時代以来の友人でしたから、指折り数えるにそのつき合いは60年にもなります。


懐かしき桑沢デザイン研究所時代(右端が坂本君)

その頃の桑沢は、入学すると基礎デザインクラスがAとBの2クラスあり、坂本君は私と同じBクラスに属していました。当時は1クラス70人近くも生徒がいたかと思いますが、今と違って二十歳以下の比率は低く、上は確か53歳の生徒まで居て、中には既に一級建築士事務所を営みながらの人などもあり、今と比べると全体に随分大人な人たちが多かったと思います。そのような構成でしたから、私のような若造は、こうした環境の中で学び得たものは実に大きかったといえます。
坂本君は当時19歳で私と同い年でしたが、何故か存在感があって、やさしい人柄で周りの面倒見も良かったのでクラス委員にも選ばれ、私もいろいろお世話になったものでした。
桑沢入学の頃は、ちょうど落語家の初代林家三平が日の出の勢いで売り出し中で、坂本君はその三平の真似をよくやっていたものですから、いつの間にかあだ名がサンペイになり、親しい仲間達の中では常にサンペイちゃんと呼ばれるようになっていきました。

私は、桑沢を出た後に早稲田大学に進み、同大学院を含め28の年齢になるまで長い間学生生活を送ることになりましたが、幼稚園から大学院までの学生時代を振り返り見るに、一番印象に残る思い出多い学びの時代は、何と言っても桑沢のそれだったと思います。
この頃同じクラスに山田耕雲という稀有の人物がいました。今も彼を慕う人たちによる耕雲会なる集まりがありますが、それは彼が若くして不慮の死を遂げてしまったからです。私たちが彼から受けた多大なる影響は計り知れず、真に素晴らしい出会いであり、刺激的な学びの時であったと言えます。
彼は元々別府の曹洞宗の大きな寺の坊主で、デザインに関わることはもちろん、酒の飲み方に始まる飲食から勝負事など諸事百般に通じた人物で、私たちにとって彼との出会いは人間形成の上で大変大きな意味を持つものとなりました。
例えば、桑沢の学生時代には彼の提唱で原書講読会などもやりました。モホリ・ナギの「Vision in Motion」やジョージ・ケペシュの「New landscape」などといった貴重な図書を、英語担当だった神之村黒白子(かみのむらあやめ)先生に来て頂いて原書講読会を行ったことなど、後から振り返ると実に貴重な体験であったとしか言いようがありません。
こうした勉強会の後には必ず飲み会がセットされていましたが、そうした場を常にリードしてくれたのが山田耕雲さんでした。そしてそんな時、坂本君も私もいつも仲間であったのです。
まさに青春謳歌の時であったと思います。

その頃の桑沢は、2年目には研究科に進むのですが、ここは1クラスしかありませんでした。人数が半分にしぼられて次第に専門分野を指向していくのです。私は秋頃には大学受験の意思を固めて、公園通りの中程にあった早慶ゼミナールという今から思うと相当オンボロな予備校に転校し、受験勉強に集中して次の春には早稲田大学に入学することになるのですが、坂本君は桑沢の研究科を卒業して、やがて坂倉準三事務所に就職していきます。
そこで彼の初期の仕事の傑作が、札幌パークホテルのロビー椅子でした。私は北海道に行った際に足を伸ばして実物を見に行ったのですが、その素晴らしいフォルムは今も目に焼きついています。ホテルロビーの大空間に負けない存在感でした。

180319_02.jpg
坂本和正くん、初期デザインの椅子
(出典:桑沢デザイン研究所同窓会)

その後、坂本君は菜子さんと結婚することになるのですが、彼女は桑沢の同期生ながら隣のAクラスの生徒でしたから、私は最初はあまりお付き合いがありませんでした。ただ、坂本君と菜子さんは渋谷の喫茶店などでよくデートされていて、何故か私はその現場によく出くわしました。当時の恥ずかしそうで初々しいお二人の姿が懐かしく思い起こされます。

話は飛びますが、夫人の菜子さんは卒業後に建築家:芦原義信さんの秘書になるのですが、やがてそこを辞めたところで「元男さん、私に何かやらせてくれない?」と言って訪ねて来たのです。
その頃のPAOSは沢山の仕事を抱えていて、スタッフも大勢おり、勢いという点では一番あった時代といってよいかと思います。そして代表的なプロジェクトの一つにもなってくれましたINAXのCIを手掛けていた最中で、同社をタイルメーカーだけではなくトイレメーカーとしても成功させたいとの戦略を推進中でした。その中でどうしてもトイレのプロフェッショナルを生み出したいと考えていましたので、それを引き受けて貰えまいか?と打診しました。菜子さんは最初「トイレーっ・・・???」と怪訝そうな顔をしていましたが。
INAXの伊奈輝三社長には、業界全体を盛り上げマーケットクリエーション(市場創造)を計っていくため、ライバルTOTOも含め業界全体にニュートラルな立場で発言できるトイレの専門家を育てるべきだとの提案をしており、そのための費用を出していただくことを承知してもらいました。伊奈さんは大変度量の大きい経営者でしたから、この企画の意図をすぐに察し、日本初の「コンフォートスタイリスト」なるトイレの専門家の育成に賛同してくださいました。このネーミングは、英語でトイレのことをコンフォートステーションとも呼ぶことを見つけ出しての発案で、当時PAOSの企画部門のディレクターをしていた小田嶋孝司君のお手柄です。

いろいろ諸策が成功し、やがてわが国のトイレの市場規模は10年間で売上3.5倍にまで伸長していくことになり、INAXも立派なトイレメーカーに成長しました。そしてその流れと共に、菜子さんもトイレの専門家として後に結成された「日本トイレ協会」の幹部にもなり、日本を代表してトイレの国際会議にも出席する存在になっていくのです。もちろんこの陰にはサンペイちゃんの助言などもあったろうと思います。

サンペイちゃん、思い起こすに、貴方のインテリアや家具デザインの世界での功績は、吉田五十八賞受賞歴の話などを持ち出すまでもなく、活躍は幅広く大変大きなものが多数ありますが、それ以上に、共に過ごした青春時代の想い出はなかなか語り尽くせるものではないですね。
サンペイちゃん、どうぞ安らかに永遠(とわ)の眠りについて下さい。



投稿者 Nakanishi : 2018年03月20日 20:26