中西元男 実験人生
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盟友「木谷精吾」逝く

2018 / 1 /26

年明け早々にお悔やみの話題はと思い控えておりましたが、昨年暮れに、60年余の永いつき合いの親しい友人であった、“木谷精吾”君が逝ってしまいました。癌を手術して療養中だったことは分かっていたのですが、生来前向きで明るい人柄の人物でしたので、こんなに早く別れがやってこようとは思いもよりませんでした。

彼とは、神戸の兵庫県立長田高校で出会ったのですが、以来、非常に近しい人間関係が続いた友人でした。夫人の佳実さんも同窓生で、元々は長田高校時代に、演劇部のクラブ活動を通じて親しい仲間になりました。
彼は上京後、私が下宿をしていた杉並区堀之内のすぐ近所に引っ越してきました。また、高校時代の同級生で武蔵野美術大学に進んだ画家の古川清君も、私の隣の部屋に下宿することになり、そこに桑沢デザイン研究所の同級生で写真家の山田脩二君(現在は淡路島在住)も加わって、よく飲んで騒いだ仲でした。

そういう懐かしい想い出もあって、私が神戸に帰る機会を捉えては、「堀之内会」と称し、私の弟夫婦も交えて気の置けない飲み会をやるのが楽しみでした。いわゆる刎頸(ふんけい)の友とも言うべき、挨拶や気兼ねの要らない心ゆるしたつき合いでした。こうした人間関係は大人になってからはなかなか生まれませんので、貴重な仲間である存在を有難く思っておりました。
それゆえ、この年齢になると仕方の無いことかも知れませんが、先立たれてしまい何とも言えない寂寥感に包まれております。


木谷精吾夫妻(右ふたり) と古川清氏
090911_w.jpg

堀之内会全員集合

長田高校時代は彼の方が2年後輩だったのですが、早稲田大学の演劇専修を受験すると言って上京し、現役ですんなりと合格してしまいました。
それがきっかけで、「なぁんだ彼が入れるのなら」と、私も桑沢デザイン研究所の後に早稲田大学を受験し、無事後輩として文学部美術専修に合格しました。彼が先に早稲田に入っていなければ、私の早稲田大学進学は無かったと思います。

彼が何年早稲田に在学したのか定かではありませんが、同じ文学部に入りましたので、英語の試験の時には、多少出来の良かった私がなるべく大きな字で答案用紙を記入し、斜め後ろに座った彼がそれを必死で写し、無事共に単位を取ったことなど、今となっては懐かしい想い出です。
大学卒業の後、木谷君は演劇の道を志しましたが、今ほど独立劇団などが成り立つ可能性は高くなく、苦渋の決断で演劇の道をあきらめ、川崎製鉄の子会社に就職しました。後に私が親会社である川崎製鉄からCIプロジェクトのご依頼を受け、企業理念づくりやコーポレートロゴのデザインを致しましたが、彼はそれを会社で学習させられたことなどもあったようです。この川鉄のロゴデザインは、その後の企業統合の結果消え去ってしまいましたが、私が最も気に入っていた企業シンボルの一つでありました。


川崎製鉄 CIデザインマニュアル

人柄というべきか人徳というべきか分かりませんが、木谷精吾君はともかくいつ会っても、人を決して不愉快な気持ちにさせない素晴らしい存在感の人物であったと思います。
彼が逝ってしまったのは少し早すぎたように思いますが、今は黄泉の国でもきっと周りを楽しませているだろうと確信しています。
好漢 木谷精吾、安らかに眠れ。



投稿者 Nakanishi : 2018年01月26日 15:40