中西元男 実験人生
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オリンピックエンブレムデザイン、ますます秀作生まれ難い方向へ?

2015 / 9 /25


3つのデザイン事例

前回のブログで、オリンピックエンブレムのデザインが果たさなければならない役割や満たさなければならない条件・プロセスについて、ざっとした私見を書いてみましたが、その後の展開を見ていますと、幅広い分野からの審査委員選出や国民投票等々と、流れとしてはますます優れた個性的・審美的なエンブレムデザインが生まれにくい方向へと向かっているように私には思えます。
このように泥沼化しつつある状況の渦中に決して入り込みたいとは思いませんが、わが国のこうした分野の文化水準を考え、長く経験を積んできた専門家としては、やはり一文をものしておくべきかと考え、敢えて書かせて頂きたいと思います。(前回の私の提言に関し、新聞・雑誌・TV等から取材のお申し込みをいただきましたが、かえって混乱を招くかと考えお断りをさせていただきましたことを、この場を借りてお詫び申し上げます)

昔から、「優れたシンボルは思想の凝縮」とか「総員賛成の傑作無し」と言われてきましたし、私の約50年に及ぶこの分野でのデザインワークのキャリアを振り返っても、全くその通りだと言えます。
その意味で、今回のエンブレムデザインの現状の開発プロセスは、一層「秀作が生まれ難い道」へと歩みつつあるとの危惧の念を拭いきれません。

このたびの問題に関する新聞等の諸報道を散見しておりましても、話題の中心や多くの人々の関心は、ひたすらエンブレム単体の表現やその決め方に集中していますが、重要なのはそのシンボルデザインの果たす役割です。
もう半世紀以上も前から、徐々にではありますが、シンボルとは単なる造形表現としてのマークというだけではなく、マネジメントやマーケティングの中核を担うものである、という認識が広がってきています。それは、シンボルデザインというものが、それ単体で見る人の深層心理にまで入り込む、審美性に優れているということはもちろんのこと、小は名刺やバッジから大はポスターやサイン(大看板)まで、実に幅広く使われていくという目的に合っているか、システム展開力を持っているか、といった諸要求に応えられるか否かといった対応力を求められるからです。


NTTのCoroporate Identity System Tree

上図は、前稿でも触れました事例:NTTのVIS(ヴィジュアル・アイデンティティ・システム)を、どなたにも分かるように系統樹として明示した図版です。
エンブレムデザインというものは、その活用・使用に関わるのはその道のプロばかりではなく、表現者としては素人の方も当然含まれてきます。そのため、エンブレムのデザインにおいては、シンボル自体のデザイン、カラーシステム、使用書体やそのルールなどはもちろんのこと、システム展開や管理運用マニュアルの制作・デザイン等まで、高度かつ専門的なトータルデザイン開発が求められることになります。オリンピックのシンボルを開発するという作業においては、多くの人々に愛用されるための様々な要望をなるべく広く満たすと共に、極めて専門的な要求にも応えなければならないのです。

視覚情報の大衆性という点については、当初は新規性やオリジナリティがそれと相反することもありますが、私の経験では意外に早く馴染んで受け入れられ、問題解決に繋がっていくものです。
ですから、私共が新しいデザイン開発プロジェクトに関わる際には、新シンボルをいわゆる投票などの賛成多数で決めるようなことは、参考程度に行うことはありますが、原則いたしません。多数決という方法論は一見民主的と受け取られるかもしれませんが、定量的に価値が推し量れないデザインやイメージの評価に関しては、往々にして「好き嫌い」と「良い悪い」の区別がつけられないことが起こりがちだからです。加えて、その時点でのトレンドで近視眼的に興味を感じるものが選ばれることが多く、長期にわたるストック(美的資産)としての価値判断が為されにくいのです。
シンボルのように将来に向かって長く使っていくべきデザインには、個人的な好みではなく、組織体や事業にとっての利便や、長期間使っていく上での合目的性など、時間を超越した判断が求められます。その時点での最大効果が求められる広告宣伝物等とは異なり、着眼大局的な判断が不可欠なのです。

冒頭で「優れたシンボルは思想の凝縮」と書きましたが、シンボル自体の造形がどうであるかということ以前に、そこにどれ程の思いや哲学が込められ、どこまで表現ができているかが重要であり、そうした潜在力を伴ってシンボルは力を持ってくるのです。
たとえばキリスト教の十字架は造形的には単なるタテ棒とヨコ棒の組合せですが、見る人はその背後に秘められた理念や物語、カテドラル等の象徴物等を種々伴って想起し、そのことでより強いシンボル性を発揮しているのと同じ事です。

「ロジック→レトリック→シンボリックアウトプット」とは、通常、私共が企業のシンボルなどをデザインする際に留意していることです。
まず、当該企業の将来的な存立理念や事業方針、つまり大局的な論理(ロジック)を把握または作成し、それをデザイン表現していくために要約化・抽象化・キーワード化(レトリック)し、その上でシンボルやロゴのデザイン開発作業(アウトプット表現)を進めていくというプロセスをたどっていきます。
こうした経緯を経ることによって、そのシンボルが当該企業に関わる多くの人々に理解共有され、マネジメントやマーケティングに寄与する成果が生まれていきます。その開発過程を大切にすると共に、関係者集団への周知徹底を経て、シンボルは初めて内外に共有化され、意味と意義のある存在価値を持っていくのです。

オリンピックのエンブレム開発とて同様ではないでしょうか。
単に形や表現だけのデザインを企図してしまい、重要な開発プロセスをデザイナー個人に委ね、個人作品化したものを生み出してしまったことに、今回の問題の発端があったと私には思えます。
確かにシンボル選びの基本としては「シンプルにして、かつ強い記号発信力が持てる」が前提であるのは当然のこととして、「大きくしても小さくしても/多色使いでも単色でも/平面でも立体や動体でも、いずれもイメージがなるべく変わらない」といった原則があります。原案が決まると、一般的作業としてそうした可能性や方針に添うように造形的精緻化を行いますが、制作や選択の作業の段階から、そのことを踏まえた方法論に則るべきです。
今般の流れの中で、「いっそ招致のためのシンボルをそのままエンブレムにしたら」との意見がありましたが、一過性のプロモーショナルなものの表現としてはよいものの、シンボルデザインとしては上記のような観点から判断すると難しいと言えるでしょう。

もう少し具体的に述べますと、このたびの問題発生は、2020年の東京オリンピックは何のためにどういう目標を掲げて開催するのかといった戦略を構築し、それを明示共有化して、その中の何をデザインで達成していくのかを策定し、その後の活かし方の仮説まで勘案した上で実行に踏み切る、ということがなされなかったことに起因し、そのためにアマ・プロ問わずの百家争鳴になってしまったと思えます。
あるべきプロセスを的確に踏んでいれば、デザインする側には目標が明示され、その成果を選択する側にもスクリーニング項目が明確化されますから、戦略的・長期的・計画的プログラムのもとに開発が進められたのではないでしょうか。

そういった意味で、このたびのオリンピックエンブレムのデザイン開発と選定はマーク屋さんのそれであり、部分的な職人仕事の域を出ず、幅広い展開力や現代の情報化社会対応に乏しく、アイデンティティデザインとしては甚だ20世紀前半型であったと断ぜざるをえません。
わが国デザイン界全体の文化度の問題として、恥ずかしい限りと私には思えます。

今般のように、問題の中核を誰もが個人的には決め難い状況に至ると、「和をもって貴しと為す」という日本独特の発想で、必ずと言っていいほど「有識者の意見を聞いて」といった流れになり、遂にはコンセプトもデザインも国民投票で、などといった、専門家尊重とは逆の方向へと舵取りがなされていきます。そうした合議においては、概ね「あの時ああ言っておいたではないか」といった自己保身型発言が増え、話はますます曖昧模糊とした方向へと進んでいきます。

また、前述の「総員賛成の傑作無し」は、デザインやアートの分野で新しい価値が生まれる時に往々にして起こりがちな問題です。提案が個性的で新しい価値を創出したものであればあるほど、全員一致の大賛成など得られる筈がないのです。
「野獣の檻の中のドナテロ(初期ルネサンスを代表する写実彫刻家)だ」とは、近代絵画の野獣派(フォービスム)が、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどの手で生まれ始めた際の批判家の有名な言葉ですが、本来新しい表現価値は広くは受け入れられにくいところから始まることは、既に歴史が随所に証明してきているのではないでしょうか。

繰り返し申し上げますが、オリンピックエンブレムのデザイン開発において、もし本当に「個性的な新しい価値」を生み出したいと考えるのであれば、オリジナリティある成果が生み出せる方法論の根本からして考え直すべきではないでしょうか?

ともあれ、オリンピックのエンブレムデザイン問題は少しでも早く開発を正道に戻し、文化的に世界の笑いものにならない状況への軌道修正を期待いたします。



投稿者 Nakanishi : 2015年09月25日 10:56