中西元男 実験人生
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« NTT真藤総裁&社長(想い出の名経営者1)メインデザイン! 新しい時代に入る »

35年振りの講演会場、11年振りのソウル

2014 / 12 /25

デザインの国際会議への出席を頼まれ、随分久し振りに韓国に出かけました。
趙英濟先生を始め旧知の皆さんにお会いする楽しみもありました。加えて、趙先生が今年韓国のデザイナーの殿堂入り第1号になられたので、そのお祝いの意味もありました。


趙英濟先生(中央)、金R氏(左)との久し振りの再会

思えば、私が趙先生からはじめての韓国に講演に来て欲しいと招請を受けたのは1979年のことでしたから、以来35年の歳月を経ています。この間の日韓関係の変化は実に目まぐるしいものがあります。今は最も悪い時期なのかもしれません。
当時、趙先生はソウル大学の教授(後に同大学美術学部長)をされていて、韓国デザイン教育界のトップにありながら、韓国視覚デザイナー協会や韓国デザイン学会なども次々と設立され、教育界・グラフィックデザイナー協会・学会とまさに八面六臂の活躍振りで、わが国ではちょっと考えられないような精力的な広角活動に驚かせられたものです。後には1988年のソウルオリンピックのデザイン総責任者もなさいました。

金R(キム・ヒュン)氏もデザイン・パークというクリエイティブ・オフィスを経営し、今では韓国を最も代表するCIデザイナーといえる存在で、これまで30年の間に400個のロゴ類をデザインしたというから驚きです。
彼の作品では、ソウル・オリンピックのキャラクターなどがわが国でもよく知られていますが、著作集を見ても、作品の多さとデザイン水準の高さに驚かされます。







高いデザイン水準で30年400点の労作、金R氏作品集から

今を去ること35年前の、韓国での最初の講演依頼は、私自身全く想像もしていなかった、寝耳に水のような申し出でした。当時の私は、欧米の方ばかり向いていて韓国をはじめとするアジアのことなど考えてもいませんでしたし、新聞などでは反日的な動きの報道も多くありましたので、講演は固辞し続けたのですが、達筆の日本文の手紙と、その文中の「同じ漢字民族同士ではないですか」の殺し文句に心動かされ、思い切って出かけることにしました。

ところが、飛行機が金浦空港に着陸し、迎えの車に乗ってソウルの中心街に向かうに従って、段々不安になってきました。人口1,000万を超えるこの世界的な大都市は見渡す限り全てハングルで、看板や表示類のどこにも漢字一文字もアルファベットのかけらすら見かけないのです。当時は朴大統領(現大統領の父上)の軍事政権下で、ソウルの街には戒厳令がひかれ、あらゆる表示にはハングル以外使ってはならないとの指示が出ていたからでした。
街行く人も誰もが何らかの軍服スタイルで、女性達も化粧っ気一つ無く、みな怒ったような無表情な顔で足早に歩いているのが印象的でした。
正直なところ、これはとんでもない所に来てしまったとの思いでした。
当時は朝鮮戦争からまだ間が無く、南北朝鮮関係が今では想像できないくらい異常に険悪で、飛行機が金浦空港着陸寸前には「窓を閉めろ、撮影絶対禁止」の機内放送があり、それでもそーっとブラインドを開け隙間から外を覗き見すると、進入路の周りの山々の頂は全て機関砲などの銃座になっていて、ぞっとしたのを鮮烈に覚えています。


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その時買い求めてきた学生の軍事教練用の服。迷彩模様の中にペン先が入っているのが特徴です。

現在私は、韓国歴史ドラマがわが国のそれより概ねずっと面白いので、時たま「奇皇后」などを楽しんでおりますが、ここに登場する美女達と、当時戒厳令下のソウルの街にいたおしゃれ心など皆無の女性達が同一人種とはなかなか結びつきません。

そして初めてのソウル到着の翌日、講演会場に出かけて演壇に立つと何か雰囲気が変なのです。聴衆の皆さんがポカンと私の方を見ているので、通訳の趙先生に「何か様子がおかしくありませんか?」と聞くと、「中西さんが立派な本を何冊も書いた人なので、多分、みな白髪白ひげの仙人のような人が登場すると思っていて、想像とあまりにも違ったあなたに驚いているのですよ」と言われ、今度はこちらの方が驚く番です。

ところで、この時講演を依頼されるきっかけになったのは、30年10版を重ねるロングセラー名著となってくれた「DECOMAS−経営戦略としてのデザイン統合−」(1971年三省堂刊)でした。


「DECOMAS」と趙先生の「DECOMASマニュアル」

DECOMASという造語は、日本国内より韓国で早くから実用化され、「趙英濟とDECOMAS展」が既に開かれていたり、同国を代表するメーカー:OBビールの「DECOMAS MANUAL」が発刊されてもいました。世にCI(Corporate Identity)を冠したマニュアルは数々あれど、おそらくDECOMASを冠したマニュアルはこれくらいではないでしょうか?

趙先生の話では、「中西さんのDECOMASが日本語で書かれていたのが良かった。あの時代(’70)の韓国の財閥一世達は皆さん日本語が読めたから、DECOMASの本を見せると『こういうことをやらなければ新しい企業経営ではないのか』と、次々DECOMASプロジェクトの発注をしてくれた」というのです。この本の波及効果が日本国内より早かったというのは驚きです。

そして今回の一番の驚きは、「中西さん、あなたが今回話した場所は、35年前、初めて講演を行った場所と全く同じ所ですよ」との趙先生のひと言でした。
もちろん昔のバラックのような貧しい会場とは異なり、今は立派に建て替わった弘益大学の10Fホールでしたが・・・。


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今回の講演会場



投稿者 Nakanishi : 2014年12月25日 20:37