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佐野豊君(元PAOS制作ディレクター)を悼む

2014 / 6 /25

2014年6月6日、PAOSが最も多くのスタッフをかかえ、次々とわが国のCI史を彩るロゴやVIを連発していた時代の、デザイン制作部門のディレクターであった俊英:佐野豊君が亡くなりました。享年69歳でした。


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2014年4月、5月のデザイン打ち合わせ時 佐野君近影

彼が「PAOSに就職したい」と訪ねてきたのは1972年春のことです。
当時のPAOSは、71年の暮れにようやくの思いで「DECOMAS(経営戦略としてのデザイン統合) 」の初版を上梓したばかりで、あまりにこの拙著の刊行のみに全てを集中したものですから、デザイン業務の良く出来るベテラン社員達は愛想をつかして次々と辞めていき、辞めるに辞められない未熟な若いスタッフのみが10人余残るといった、まさに倒産寸前の組織でした。忘れもしませんが72年の2月の売上が僅かに9万円でその内6万円は私の講演料といった有様でした。
そんなところにDECOMASの本を見て興奮しながら、名古屋から就職を願い出て、上京してきたのが佐野君でした。

彼は最初「15分でいいから作品を見て欲しい」と電話をしてきました。結果、この面接会見は3時間の長きに及びました。
それ程彼が説明していく作品(殆どは彼が教師をしていた名古屋造形短大の学生達に課した課題作品で、それをいかに指導して仕上げていったのかの説明)だったのですが、それらの内容は実に理に適い、表現品質も誠に見事なものでした。
そこで入社してもらうことを前提に別れたのですが、この件を会社で皆に話すと「会社が潰れかけているという時に、何を馬鹿なことを言っているのか?」と総スカンでした。
そこで最後には「彼の給与分は私自身の月給の中から出すから認めてくれ」と話し、無理矢理入社の内諾をとりました。
私としては、DECOMASの内容にそれなりの手応えを得ていましたし効果にも期待しておりました。それ以上に、どうせ倒れるのなら将来の可能性に賭け、前を向いて倒れようとの思いで、小さなお金の問題はどうでもよかったのでした。

この時代のPAOSの最も手っ取り早いお金の儲け方は、一冊4.3sにもなる重い「DECOMAS」の本そのものを、版元の三省堂から仕入れ、デザイン会社や設計事務所に手当たり次第売り歩くことでした。要は行商です。若い社員達は、デザインの仕事は出来なくとも体力はありますから、多い人は4冊もの「DECOMAS」を風呂敷に包んで売り歩いていました。

そのうち、東洋工業(現マツダ)、セキスイハイム、ダイエー、小岩井、松屋銀座と、次々にビッグプロジェクトが成約し、成果としてのクライアントの業績も伸びて、PAOSの70年代の経営はやがて順風満帆状態となり、次々と有能な人材も集まり、初期の黄金時代が形成されていきました。そして、そのデザイン制作のリーダーとして育っていったのがまさに佐野君でした。この70年代に生み出された基本ロゴの原デザインの半分位は、それぞれに著名なデザイナーの作品でしたが、それにマーケティングツールとしての命を吹き込み、CIやVIシステムとして成長させていったのはまさに佐野君の力に因るところ大でした。


前列左から2番目が佐野君 PAOS80年代社員集合写真

当時の彼は、髪の毛は腰よりも長いくらいの長髪で、お祖父さんお祖母さんに厳しく育てられ、礼儀も昔風でマナーも良く、加えて私のデザイン哲学を深層部分から理解し、私自身のヒラメキ的アイデアを見事な造形成果やその展開システムとして表現してくれました。今だから言えますが、市場進出のための隠れた秘策、小岩井のパッケージデザイン8色刷などの奇策は、そうした成果の典型でしょう。

80年代に入ると、ブリヂストン、ケンウッド、INAX、NTT等と、まさに日本型CI:PAOS主役の時代が続き、そのデザイン制作陣の中心にいたのが佐野君でした。この頃は企画コンペやデザインコンペなどに応募しても、海外・国内の競合他社に敗れる気がしませんでした。

当時は制作部門のデザイナーだけでもは20人位いて、皆に対等にコンセプトを説明し、アイデア出しは各自の競合にしていました。それを壁に張り巡らして、皆の前で佐野君と私で検討を繰り返し候補案を選び絞り込んでいくのです、その際、私自身はどの案が誰の原作であったか、個々人の情報は全く知りませんでした。これは選択に私情を入れないことと、デザインの仕上げや精緻化作業はPAOS全体で組織的にやるという方法論が貫かれていた、つまり組織で創作活動を行うという方針が徹底されていたからです。私は、当時のどの原案がどのデザイナーの提案であったものか、未だに知りません。


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600案以上も案を出して検討したINAXロゴのアイディエーション・ラフスケッチ

BRIDGESTOnEに一文字小文字を入れ11文字を一体化するとか、KENWOOD(旧社名トリオ)のWの上に▼を配するとか、INAXのロゴに大きなブルースクエアを付けた感覚訴求力インパクトでTOTOに対抗する、等のアイデアは、こうした総覧ミーティングの中から私が出したアイデアを佐野君が中心になって造形的精緻化を行ったものです。
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90年代に入ると、バブル経済崩壊の波がヒタヒタと押し寄せ、PAOSの経営も安閑とはしていられなくなり、当面の経営のハンドリングをどうしていくか協議を重ねる機会が多くなっていきました。
そうした流れの中の社員総会で予期せず起こった事件が、有望視していた若者の突発的発言でした。その詳細は他ブログで書きましたのでここでは詳述しませんが、この場のひと言「社長が責任を持って50人分の仕事を取ってくるべきだ」の、まるで全員扶養家族のような意識と、もう一つは、その場にいた古くからの社員達の反応というか無言状態が、私に組織としてのPAOSの幕引きを決意させたのでした。
事実、その後PAOSという組織を徐々に解体していき、二度と数十人単位の大きなクリエイティブ組織をつくろうとはしませんでした。

PAOSという、デザイン会社としては大組織とブランド力の上にあって、デザイナーとしての力を発揮していた佐野君にとっては、PAOSの空中分解は大いなる痛手だったでしょう。
他の多くのPAOSのスタッフ達もこの経営的組織的変革は、これまでの立場や生活を保つ上では、自分たちが引き金を引いた行為の結果とはいえ、自分たちとしてはなるべく他人の責任、突き詰めて言えば私の責任に帰したい思いだったかもしれませんが、個々の人の意識はともあれ、PAOS解散の最大の被害者は佐野君だったと言えるでしょうか。

その後、身軽にしたPAOS(実体は中西元男事務所)は、従来からのクライアントの仕事に頼ることは極力避け、PAOS本来の「進歩的で、創造的で、組織的に最適解を出す」フィロソフィーを守る方針を堅持しようと努力してきました。頼まれるままに中国にも現地法人を設立しましたし、元PAOSのスタッフ達にも、訪ねてくる人には仕事の依頼をしてきましたが、当方から声をかけて仕事を頼むことは出来るだけ止めてきました。
それでも、時々会う佐野君は、そのあたりの私の考え方やSTRAMDなど新しいデザイン分野へのチャレンジの連続に対する最高の理解者であり続けてくれました。しかし彼は、自身の仕事のことや家庭のことについては殆ど口を開くことはありませんでした。
そんなことで、約20年近く彼がどのような仕事や生活を送ってきたのか殆ど分かっていなかったのですが、昨年(2013年)の3月に「何か仕事を一緒にやらせて欲しい」と頼みに来ました。
そこで随分久しぶりでしたが、彼にどういうことができるかは大体判っていましたので、新しく始まるVIのプロジェクトを任せました。以前のようには斬新なアイデアが出にくくなっていることや、仕事の段取り上のスピード感が現代のビジネスに合わないかと感じるところはありましたが、デザイン上の基礎知識や美意識は余人の及ばぬ高いものがありましたので、最近は主に弊社の若手デザイナーに対する指導やアドバイスに仕事の中身を移していってもらいつつありました。

そうした新しい形でのコ・ワークで、佐野君とPAOSとの新しい仕事のスタイルが築けそう、と思っていた矢先、しかも次なる新しいプロジェクトに丁度掛かろうとしていたその時、飛び込んできたのが、突然の訃報でした。
唖然呆然といったところが正直な気持ちですが、聞けば最後までタバコが止められなかったとのこと、その事実は全然知りませんでしたので驚きましたが、そこがひょっとすると彼の唯一のストレス開放源だったのかもしれません。

それにしても仕事の現役途中で倒れた佐野豊、影山功、佐合孝雄、彼らはいずれもPAOSの中では特別に頭も切れ、仕事も良く出来た素晴らしい人材で、今でもここにいて一緒に仕事が出来ればと思い返すことが多いのですが、いずれも生死の問題は別にして倒れるまでタバコが止められなかったという共通点がありました。

佐野豊君が好きだったビールのグラスを私なりに一人傾け、彼との想い出を諸々振り返る毎日です。
合掌



投稿者 Nakanishi : 2014年06月25日 10:49