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« 感動成長、STRAMD第4期生修了メインSTRAMD第5期スタート、「出でよデザイニスト」 »

人生は「カタストロフィ(不連続)」で決まっていく

2014 / 4 / 9

2014年4月1日、PAOSは設立46周年を迎えました。
思えば永いとも短いとも考えられる道程です。
大体私自身がこのような年齢まで仕事を続けているとは当初は思ってもいなかったからです。
PAOSのビジネス実績や内容については沢山の書籍で紹介もされていますのでご存知の方も多いと思いますが、こうした仕事に至るまでの私どもの前史につきましてはあまり知られていませんので、この機会に、記録として残してみましょう。

私がPAOSという独自のビジネス人生を歩むようになるまでの前行程を振り返るとき、いくつかの大きな決断や節目の創出があったことが思い起こされます。そのことで諸々の出来事が生み出されてきたのですが、それらはまさに不連続的かつ意図的な自発的変化により形づくられてきたとも言えます。
カタストロフィ(Catastrophe)とは、通常、悲劇的な結末とか破局を意味しますが、「不連続的な現象」との意味もあります。カタストロフィの理論では、例えばその人の人生の重要事を決定づけるのは、変化の無い連続的な時間の経過よりは突如発生する不連続的な出来事であり、そういったものこそ大きな役割を果たすと言われます。
確かに、私自身の人生を振り返ってみましても、今日の仕事内容や生き方を決めてきた大きな要素や要因は、まさにカタストロフィともいえる劇的・不連続的変化にこそあったと言えます。そうした仕事人生の前史とも呼べる諸々の出来事を、改めて振り返ってみたいと思います。

カタストロフィ(1)「旧家を出奔(しゅっぽん)」
神戸で何十代も続く旧家の総領息子(長男)に生まれたにもかかわらず、父親の反対を押し切って東京に飛び出して来てしまったのが、私のカタストロフィ(1)です。「何もわざわざ苦労の中に飛び込まなくてもええのに」と周りから言われながらも、ともかく古くからの家のしきたりなどに束縛されること無く、自由に自分の道を歩みたかった若気の至りが、わが実験人生の始まりです。

カタストロフィ(2)「バウハウスに傾倒」
そして中学時代の絵の先生からのご紹介でたまたまご縁を得た親切な方との出会いから、デザインへの道、中でもバウハウス(Bauhaus)のデザイン教育に傾倒していくことになります。その頃は、現在のようにバウハウスのことが書かれている書籍など数少なかったものですから、戦前刊行の古本などでも中に少しでもバウハウスのことが書かれているだけで買い漁(あさ)って、むさぼり読んだものです。
そして、上京して1年半後に受験した東京芸術大学建築学科の入学試験。30倍近い倍率の中、最終の第三次試験まで行き、そこで「住宅の設計」がテーマとして出題されました。その課題を途中までやったところで、「これは自分の求めているバウハウス流デザインとは違うぞ?」との思いが急遽頭をもたげ、試験の途中で手を上げて退出したい旨申し出のです。試験監督官に「ここまで来ておいて諦(あきら)めるのか」と驚かれたのですが、そのまま出てきてしまいました。
その後、日本で唯一バウハウス・システムにてデザイン教育を行っている学校があると紹介を受け、桑沢デザイン研究所を受験、入学しました。
当時の桑沢は、先生も生徒もまさにリベラルな気風に満ちた学校で、私が学んだ幼稚園から大学院までの永い学生期間の中でも、特筆に値する素晴らしい教育機関であり、学びの期間であったと今でも思っています。

カタストロフィ(3)「桑沢教育の恩恵と疑問」
桑沢時代は、後から振り返っても、デザインを核によくもあれほどの人材陣に教えて頂けたと思えるほどの、まさにわが国を代表する各分野の凄い先生方が揃っていました。桑沢洋子先生の卓越した先見性とお人柄の成せるところでしょう。
そして基礎デザインコースを修了し、デザイン研究コースで学びながら来春は卒業、という夏休みのある日、ふと思い至ったことがありました。
それは、世の中に存在する様々な人工物の「最終的なデザインの決定者は本当にデザイナーなのか?」への疑問でした。市場に存在する製品のデシジョンメーカー(最終意思決定者)は、実は製造業や小売業のトップマネジメントではないのか?デザイナーは絵を描くことはできる、モデルを提示することは出来る。しかし社会や生活の場に具体的な商品を存在させている真の実践者は、企業の社長ではないのか?と。
であるならば、本当に優れたデザイン・アイテム(物)を世の中に存在させるためには、企業の経営者にこそデザインの理解者になって貰い、経営戦略や手法にデザインを有効に組み込んでもらうことも重要なのではないか、と考えたのです。
そしてこの問題を解決するためには、「経営者に理解されるデザイン理論や経営者に採用されるデザイン手法」を開発することも、必須といえるデザインの仕事ではないか、とのテーマを持ち始めました。そのための最良の方法は美術学校系ではない一般の大学に入り、デザインと経営学やマーケティングなど諸分野との関係についての勉強を始めることではなかろうか?と思い、「そうだ、総合大学に行こう」と決心し、思い切って予備校に転校しました。

カタストロフィ(4)「早稻田大学デザイン研究会の貴重なパブリック体験」
半年弱の猛烈な受験勉強の結果、無事、早稲田大学に合格しました。
そして、この野性味ある雑草大学というかマンモス大学への入学は、その後に多くの成果をもたらしてくれました。
真の美を見る目は識ることより見ることで得られる、と言いますが、その点では先ず桑沢で感覚的な訓練を先にやっておいた後、知識の勉強世界に入っていった私の人生のプロセスは、今から振り返るに本当に良かったと思います。
在学中は、専攻した学部の勉強よりむしろサークル活動の「デザイン研究会」で過ごした時間が遙かに多かったのですが、デザインを徹底活用した会員募集活動の結果、予想を遙かに超える多数かつ全学部の学生がドーンと入会してくれました。私が学部から大学院に進む頃には何とその会員数は500人を越え、数ある文化系サークルの中でも、一、二を争う巨大サークルに成長していました。
そしてここでの体験は私に3つのことを教えてくれました。
(1)デザインは分野を越えて誰にでも興味を持たれる
(2)デザインを有効に活かせば多くの人たちを動かせる
(3)デザイン教育は総合大学においてこそ成されるべき
この仮説を背景に提案した「早稲田大学デザイン学部設置への試案」は大きな評判を呼び、時の大浜信泉総長にお目に掛かり話し合ったり、雑誌に企画の全容が掲載されて話題になるなどの結果を招いてくれました。

カタストロフィ(5)「デザイニズムの会社PAOS誕生」
大学院に進んでからも、有志の後輩たちと本来の目的である研究活動を続けていたのですが、修士課程を終える時に後輩達が「このままずぅーっと研究活動を続けたい」と言い始めました。
その頃には、後に経営学の分野で活躍する若手の研究者たちも加わり、研究テーマは相当熱を帯びていたこともありますが、「もし潰れたら、その時就職のことは考えよう」と、デザインオフィスともデザイン研究所とも呼べる組織を動かし始めました。そしてその運動を「デザイニズム/DESIGNISM」と名付けたのです。
当初は、大企業に就職していった仲間たちまで夜になると集まってきて、議論の会とも飲み会ともつかない集会を続けていたのですが、大学時代の仲間繋がりで仕事の依頼も結構増え、2年後にはとうとう本格的に法人化をしようという話になっていきました。

結果誕生したのが、現在に続くことになるPAOSという独特の会社です。
PAOSとは、Progressive Artists Open System(進歩的、創造的、組織的に最適解を出す)を略した、何とも欲張ったフィロソフィブランドです。発足当初より自ら「実験会社」と呼んできましたが、目的は学生時代からの研究テーマであったデザインと企業経営を結び大きな成果を生み出すことの具現化にありました。後に学生ベンチャーのはしり等と言われましたが、当初は事業化で儲けようなどといった考えは殆どありませんでした。
このようにPAOSの前史とは、要は、頭でっかちの理念オリエンティッドな事業が、続けているうちに上手くいってしまったというのが本当のところです。

カタストロフィ(6)「大組織としてのPAOSは解散」
述べて参りましたように、PAOSの歩みは不思議な折れ曲がり型連鎖の果てであることがお分かり頂けようかと思います。
しかしそうした独自の運動体ともビジネス組織ともつかない流れから、やがて、30年間10版を重ねるロングセラー本「DECOMAS(経営戦略としてのデザイン統合)」が上梓の運びとなり、PAOS独自のビジネスワールドが誕生、その仕事や研究の中からいくつものサクセスストリーと呼べるプロジェクトも誕生していき、スタッフもフルタイムの人間だけでも60人近くまで肥大していったのです。
仕事の依頼も沢山あり、資金も潤沢になり、スタッフの給与水準も多くの大企業を上回っていました。社員旅行でNYにまで出かけたのですから。
ただ、このような状態がいつまでも続くはずが無いとも考えていましたので、社員の皆には「今のうちにPAOSを辞めても同じ収入が得られる実力を付けるように」と言い、新入社員からは“いつ会社を潰しても構いません”の一札まで出してもらっていました。
やがてバブル経済が崩壊し、PAOSにも経営苦難の時がやって来ました。
そのような対策会議の社員総会を開いたある日、期待をかけていた若手社員の一人が突如立ち上がり「社長は責任上50人分の仕事を取ってくるべきだ」と何だか英雄気取りで声高に発言し、そのことにも驚きましたが、その際、多く同席したベテラン社員たちは誰ひとりとして「そのような考え方はおかしい、これは組織として考えるべき問題だ」という発言をしませんでした。私はこの姿勢に心底失望し、「もう大きな組織としてのPAOSは分解していこう」と決断を固めたのです。

カタストロフィ(7)「中国からの要請」
折りもおり、田中一光先生から「中国が中西さんに長期講座に来て欲しいといっているが、出かけて貰えないか?」との依頼がありました。
このような時期にこれも何かのご縁との思いと、新興市場経済化の中国にも興味があり、お引き受けすることにし、1993年、北京の中央工芸美術学院(現在のC華大学芸術学部)へ、10日間ほどの予定で出かけました。
その頃の中国はまだまだ全く貧しくて、北京の街中を荷馬車がゆっくり荷を運んでいるような状態でした。
しかし、これが中国と私やPAOSとの関わりの始まりとなり、やがて要請を受けて95年に「北京CI大会」を開き、その際には今は亡き亀倉雄策先生や山中竢シ屋社長、そして、伊奈輝三INAX社長などにも講演者として出かけていただきました。この時にはアメリカ・韓国・台湾・香港からも講演者に参加して貰い、美術館で大きなCI展覧会も開催しました。
これら一連の行動がいわば中国現代デザインの曙光ともなったようで、そうしたことがご縁となり、頼まれるままに同年PAOS北京(博奥司)という現地法人を起こし、続いて97年にはPAOS上海(派司耐特)を設立していくことになります。
かつては想像だにしていなかった中国との濃密な関わりが、こうして始まっていったのです。

エピローグ「熟達の零細企業」
斯くの如く幾度かのカタストロフィを経て現在の私やPAOSは在るわけですが、今日の私たちはありがたいことに大変恵まれた状況にあると言えます。ともかく営業活動というものをやったことがないのですから。
基本的に私たちは「なるべく少ない人数で、なるべく質の高い大きな仕事を」という方針を掲げているのですが、これまで永く仕事実績を積み上げてきましたお陰で、素晴らしいクライアントと信頼できる実力派の協力者に恵まれ、今も忙しいことこの上ない状況です。規模的には零細企業PAOSではありますが、永い経験、多くの資料・ノウハウ、積み重ねた信用信頼などをもとに、「熟達の零細企業」の道を歩めていると、感謝と共に自負もしております。

福澤諭吉は、「一生を通じてやり続ける仕事を持てた人は幸せ者である」と述べていますが、苦しいこともさしたる苦労とも思わず今日までこれた我が人生は、やはり幸せであったと言えるでしょうか。
しかしいつなん時、突如また次なるカタストロフィ(不連続的変化)が襲って来るやも知れません。そのような時も、これまでと同様にまた揺るがず対峙したいと考えてはおりますが。



投稿者 Nakanishi : 2014年04月09日 11:12