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■「Gマーク」、15年前民営化時に考えたこと
2013 / 10 /21
前回のGマークに関わるブログで、担当審査員の不注意な誤審について少し激しく批判文を書きましたので、今回は自身が担当しましたGマーク制度民営化時の内容につき、記録に留めておきたいと思います。



98〜99年度Gマーク年鑑
私がGマークの民営化再興の依頼含みで、総合審査委員長を拝命したのが1998年のことですから、以来、丁度今年(2013)で15年経つことになります。
去る者は日々に疎(うと)しと言いますが、このあたりで民営化当時、総合審査委員長(「総合」は次年度からは外れた) という責任者として、どのようなことを考えていたか、行ったか、の諸々につき、書き残して置くことも無駄ではなかろう、と一文呈しておきます。
今年(2013)もGマーク(グッドデザイン賞)受賞作品の展示会や表彰式がほどなく開催されます。
最近は発表や展示の方法もだいぶ変わりましたが、昔と違って応募品展示会場への来場者の姿も、必ずしもデザイン専門家や企業の担当者だけではなく、一般のカップルや家族連れも多くなり、民営化当時に立てた「Gマークを日本人の生活のデザインインフラに」の構想も、次第に根付いてきていることを嬉しく思います。
それまでの通商産業省(現経済産業省)主催からGマークが民営化されるに当たって、「総合審査委員長を引き受けて欲しい」と(財)日本産業デザイン振興会(当時、以下産デ振と略す)から依頼を受けました。それまでも建築空間を扱う「施設部門」(当時)が新設される際に審査員の依頼を受け、3年間この新しい部門を見てきたり、審査基準を考えたりしてきましたが、審査員としてはそれほどキャリアも無い私がいきなり審査委員長を引き受けるなど、本当に出来るのかな?と大して自信も無く、当時のGマークの内情や現実的な状況もよく分からないままお引き受けしたというのが正直なところでした。
引き受けてから「これは並大抵のことでは済まない難しい仕事」と気がつきました。
当時はバブル経済がはじけた後遺症で、聞くところでは最盛期には5000点位もあったというGマーク応募作品が1000点余と極端に少なくなり、この制度そのものの存続すらも危ぶまれる状況にあったのです。
現在とは隔世の感です。
これは私の個人的推測の域を出ませんが、この状況下、通産省は自らが主催者の状態で、この伝統ある表彰制度を潰してしまっては大変と、民営化という美名?の元に主催者の座から降りたのでしょう。
不況でGマークへの支援金・協賛金なども無くなっていくなか、後を引き受けた産デ振もさぞや大変だったでしょう。
そうした事なども委員長を引き受けてみて初めて明確になってきたくらい、私自身も実情には疎い状況の中お引き受けした仕事ではありました。でももう後には引けません。
当時の久禮彦治理事長、青木史郎部長などと協議を重ねつつ、ようやく私の役割の核は、単なる審査ではなく、Gマーク制度の復活立て直しにあるのだと自認しました。
確かに当時Gマーク制度の存立は危機的状況にありました。
応募数もそうですが、財政的にも制度的にも、維持自体が結構お先真っ暗でした。
もともとこの制度は、かつて藤山外務大臣がロンドンの空港に降り立った時、記者団に取り囲まれ「日本はどうしてコピー商品を山のように造るのか?」と詰め寄られたことに端を発したと聞いています。昨今われわれは中国のコピー商品を非難しますが、スケールの差こそあれ、かつては日本も同じようなことをやった時代があったのですね。
その出来事をきっかけに、海外から非難を浴びる真似っこ商品を造るのでは無く、オリジナリティのある優れたデザインの商品を開発する企業を積極的に表彰していこうとの趣意のもとに、1957年にGマーク制度はスタートしたと言われています。
そのうちやがて、製品デザインを良くすると輸出振興に繋がると奨励されたものの、その後のわが国経済成長の結果、米国との間に貿易摩擦が起こり内需振興の強い要請や外圧もあって、国内も含めた産業振興全体にGマーク制度が寄与することが求められるようになり、主軸はむしろ内需振興に移っていったのでした。
やがて隆盛を極めるバブル経済の進行と共に応募点数なども増え続けましたが、そこに突然やって来たのがバブルの崩壊で、わが国企業はものづくりどころでは無くなります。そしてGマークへの企業側の意識も急速に冷え込んでいったのでした。
そうしたどん底状態の中で、私に期待されたのは、民営化立て直しの旗振り役だったわけです。
仕事を始め、おおよその状況が把握できた状態で、先ず一番に大変なこととは何かと考えてみました。
Gマーク民営化で第一に考え、なすべきことは何か?
それまでのGマーク制度を支えていた主役は、家電や自動車などに代表される大メーカーで、いわばこうした分野の日本を代表する製造業と通産省のお付き合いの中で成り立ってきていた制度でした。ですから通産省が主催の座から降りてしまうと、監督官庁とのお義理も無くなる大企業は応募を止めてしまうのではないかとの心配があり、加えてもう一点重要なのは、寄付金なども無くなっていき逼迫する財政問題の立て直し策でした。
「Gマーク制度の民営化」とは、ひと言でいえば、「Gマークが自主・自立・自前・自力で成り立つ仕組み」をつくり上げることでもありました。
これは私の過去の仕事経験からいえば、経営不振企業を、経営方針のデザインを主軸に作興していくのと同じ仕事でした。
そこで産デ振にお願いして、これまでの応募記録から常連大企業40社を選び出してもらい、各社のデザイン担当役員や責任者の方たちに、東京で2回、大阪で1回集まっていただき、現況Gマークの苦境状態を説明すると同時に、民営化になっても応募辞退はしないで欲しいとのお願いと、企業側の意見も聞くパーティを開催してもらったのです。
その時の主たる説得理由は、「通常、中央省庁主催の表彰制度では大臣賞は1個が原則ですが、Gマークだけは何と14個もの大臣賞が与えられている、これを一度手放してしまうと、もう一度制度を再開したとしても大臣賞は1個になってしまう、ならば皆さんは自社の応募作の当落を越えて、デザイン界全体のために協力し合って応募参加を続けてもらえまいか?」ということでした。
加えてコスト面の見直しも重要で、審査に必要な費用の掛かり方をみると応募作品を会場に運び込んで審査をする会場費(応募作品の展示料)に最も費用を要していて、しかも出品料は使用面積に比例した支払額では無く、極端な言い方をすれば出品物に対する件数別負担で不合理だったので、これも可能な限り改めて貰いました。
場所代に関わる問題では、持込可能な商品に関しては全品現物審査という慣例も、無駄な費用をついやする大きな要因でした。応募作の中には審査をするまでも無く受賞不可能が初めから判断がついてしまう応募作品もあるからです。因みに大型の土木工作機器類などでは、搬入搬出費用だけでも何百万円も要するものがあるとの話でした。
そこで、先ず一次審査を書類(もしくはデータ)審査にして、なるべく無駄な費用を掛けないために、受賞の可能性の低い物は最初の段階であらかじめ落としてしまおう、その方がお互にとって経費の節約になると考えました。
つまり一次の書類審査を通過した応募作品のみ、二次の現物審査に臨めるということで無駄を廃したのでした。
出展企業の意見が直接聞ける40社との交流パーティは、いくつもの思わぬ成果をもたらしてくれました。
「審査内容やそのプロセスが不透明で、社内的に説明がつかない」
「Gマークに選ばれた商品は概して売れない」
「Gマークスタイル(審査員受けするシンプルなモダンデザイン風)を考え、応募する必要がある」
「(企業によっては)Gマークに通りそうな商品だけを敢えて選んだり用意したりする」
等々で、どうもその頃のGマーク選定は、企業のためにもましてや本当の意味での使用者のためにもなっていない、敢えて言うなら審査員の趣向重視に偏っているのではないか?との疑念が湧きました。
そして、その年のGマーク応募のふたを開けてみると、「デザイン界のために」とお願いした多くの企業は、出展料のかなりの値上げにも関わらずほとんどが変わらず応募要請に応えてくださったのでした。
感謝です。
ただごく僅か、ドイツのiF賞には応募しながらGマークは無視という企業もありましたが…。
改めて「Gマークの存在意義とは?」を考える
そこで改めて考え直さねばならなかった重要事は、民営化にあたっての新しいGマークコンセプトの策定や審査方針・基準の共有化でした。
前者では、Gマークを「日本人の生活や社会の美的・快適インフラ(社会基盤)に」と「Good Design is Good Business」を掲げました。
日本人の生活や社会の美的・快適インフラにとの意図は、バブル時代の量的充足や売上第一主義とは異なった、街や生活を埋めていく美的快適水準や環境の文化的向上を、Gマーク選定品を起爆材に始めていこうとのことでした。
そのため、審査委員の皆さんに集まっていただき最初に申し上げたのが、審査にあたって重視して頂きたいことの第一点は、個人的な「好き嫌い」と生活や社会的な受け手の立場に立った「良い悪い」の言葉と意識を、評価では使い分けて頂きたいとのお願いでした。
これはそれまでのGマークでは、花柄などが付いているととかく否定される度合いが強いとの風評や傾向に対し、仮に自分は使いたくなくとも、生活の場を楽しくし活性化していく好ましい花柄なら、選定商品として許容して頂きたいとする、審査に当たっての基本姿勢でした。
加えて、応募作品を審査員だけが見るために集め展示するだけではなく、どうせなら最新の製品群である応募作品を一般の人たちにも公開して、時代々々の先端デザインに理解と親しみを持ってもらおうと考えました。
大賞審査などの風景も極力多くの人たちに公開し、目の前で決まっていく状況そのものがデザインの啓蒙になるとの意図もありました。
そこで審査の透明性を増すため、最終のグランプリ審査は審査委員以外の有識者も入れて、応募者側に疑念などを持たれることの無いよう公開で実施しました。

グッドデザイン大賞受賞風景
「Good Design is Good Business」を掲げた背景には二つの意図が有りました。
一つはビジネス的に成功の可能性もしくは販売実績の既にあるものは審査段階で重視しようということと、もう一点は出来れば展示会場に「商談の場」を設け、グッドデザイン商品のビジネス上の振興も図っていこうとしました。要は経済的成果あってこそのGマークとの考えでした。
私はデザイン本来の使命はアートと異なって、
生産機関(モノ、サービス)+経済機関(販売、利益)+文化機関(生活、社会、環境)
の3軸をなるべく量的に豊かに満たしていくところにあると常々考えてきましたから、例えば直接的に経済効果が明示出来ない、収益性の心配など無い公的サービスなどは、部門賞にはなり得ても最高のグランプリなどは与えるべきではないとの意見を持っていました。
そのため、せっかく集まった最新の優れたデザイン群を、なるべく多くの人たちに見て頂くと共に、これから売り出そうとする新製品が山のように集められている訳ですから、可能ならばそこに同時に取引や商談の場を設置することも重要なデザイン振興と考えていました。特に地方の中小企業などにとってはまたとない商機です。それゆえ、「展示会場に商談会場の併設」も提案しましたが、展示会がまともに開催出来るか否かに頭がいっぱいであった当時の産デ振の皆さんには、残念ながら一顧だにされませんでした。
ただ、送り手発想・物量中心主義から、受け手発想・生活品質中心主義に、世の流れは確実に変わりつつありました。
一方で「全ての産業はサービス業化していく」ともいわれ、事実、受け手からどう価値判断されるのかを主体に、今日の生活・社会的価値は推移しつつあり、当然、企業側も生活者サービス重視へと変革の必要がありました。
それは、なるべく量的な心身サービスがデザイン本来の使命であり、最も重要な価値尺度が、芸術作品のごとく一品性に重きが置かれるのとは異なる、との判断基準重視でした。
デザイン教育が伝統的に美術学校のみに置かれてきたため、どうしても多くのデザイナー型審査員は、「芸術の価値は一品性に有り」とする、いわゆる美学的判断がデザインの価値基準にも持ち込まれる作家作品主義的傾向がありましたから。
これではデザイン本来の使命も達せられませんし、デザインビジネスの広がりも期待できなくなります。
加えて考えさせられたことは、多くの産業がソフト化・サービス業化していく中で、Gマークが対象とすべき範囲そのものの領域をどこに定めるか?というテーマへの対応でした。
情報化社会化がどんどん進む産業界というかビジネスの有り様そのものの構造的な変化や進化は、必ずしも目に見える表現物のみの創造行為だけをデザインとするにはには非ず、と考えていました。現に私どもPAOSのデザインは、常に理念や方針の「見えないデザイン」から始めることが常でしたから。
そこに応募されてきたのが、岩手県の県内主要病院を結び診断情報をやり取りし、中央病院の名医が処置の判断をし、それを離れた地域病院が処置に活かす通信ネットワークシステムでした。
岩手県は県域も広く、冬になると雪に閉ざされて行き来もままならない環境特性を持っていますから、この病院間の情報交換指示システムのソフトには実に素晴らしい価値があります。
しかしここで審査委員から出て来たのは「これって本当にデザインなの?」の疑問でした。ですが、応募者側がデザインだと考えるからこそ、わざわざ費用を払って応募してきたのであって、これはむしろデザインを量産を前提としたり、形あるモノだけに限る従来の審査委員側の考え方を改めるべきでは?と私は考えました。
そこでGマークの対象をソフト分野まで広げ、多くの境界領域ともいえるこれまでは曖昧であった分野をデザイン対象として取り込めば、デザインの領域も広がり、応募件数も増えてくれるではないかと軌道修正をし、次の年から産業製造物分類としては括りにくい、あらゆる新分野の受け皿として「新領域部門」を設けたのでした。これでGマークの応募対象分野は大きく広がりました。
それに加えて、"MOTOO'S VOICE"なるタイトルで、応募企業の人たちとの対話集を月々発信し、Gマークに対する新しい考え方の啓蒙運動や自らの講演会でのPR活動など、いくつもの拡デザインというか、新Gマーク制度の意義と内容の発信の試みを展開していきました。
結果的に多くのトライアルの中では、想定したごとくいかなかった試みもありましたが、総じて新しい制度としてのGマークの変革には成功したかと考え、財政黒字化のメドも立ちましたので、審査委員長を3年間務めたところでバトンタッチさせて貰いました。
振り返るに、1年目は情報収集と自分なりの考えのトライアル、2年目は本格的なチャレンジや諸施策の具現化実施、3年目はそれらの制度的総仕上げということになったと言えるのではなかったでしょうか?
こうした職責はあまり長くやり過ぎると権力構造のような逆の弊害も予感されましたので、3年を持って辞させていただいた次第です。
その後を託した川崎和男さん以降、審査委員長3年交代の慣習は、上記に倣う形になったようです。
投稿者 Nakanishi : 2013年10月21日 10:39