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母も逝った

2008 / 7 /12

7月7日、早暁と言うには未だ早き午前2時37分に母が息を引き取りました。最後は肺が次第に冒されていき、ほんの僅かの部分で呼吸をし頑張っていたのでしたが、力尽きたという感じでした。既に満93歳でしたし、母らしい自分の生き方を全うした感の深い永遠(とわ)の旅立ちでした。ちょうど七夕の日に逝ったわけですから、これも母らしいロマンティックな命日を選んだと私には思えました。

父が亡くなったのが6月14日でしたから、3週間ほどで母も後を追いかけて逝ったのです。もっとも、父が没した時には母の意識は既にありませんでしたので、分かっていて逝ったのではなかったと思います。しかし、金婚式・プラチナ婚式と記念日のたびに、親・子・孫・曾孫と皆で集まってはお祝いを重ねてきた、周りを見ても数少ない2人揃って長寿の長生き夫婦でしたから、共に逝ったとも思えます。

母が危ないとの連絡を受けましたのが木曜日(7月3日)夜で、取る物も取り敢えず翌早朝に神戸まで飛んで行ったのですが、顔を見た時には既に全く意識はなく、弟の話ではもう何日もその状態は続いていたとのことでした。
ところが明くる土曜日になって奇跡が起きました。
母が少し瞼を開けて、話しかける人に目で応えようとするのです。あるいは誰かが話をしていると、そちらの方に視線を向けようとします。僅かの動きですが、明らかに昨日までとは反応が変わっており、朦朧としながらも意識が戻っているのです。そして、私がベッド脇にいた時に看護師さんが筋肉注射を打ちに来てくれたのですが、その時は額にシワを寄せ顔をしかめて明らかに痛いという表情をしました。
そんなことで、この日は皆喜んで次々と声掛けをしました。が、それが最後でした。「疲れるだろうから少し休んでもらおう」と思い、その後母は眠りに入りましたが、そのまま翌日の真夜中に死出の旅立ちへと向かっていったのです。いつも他人のことを気遣って行動する実に母らしい最期であったと思います。
人は死ぬ前に一度快方に向かう姿を見せるとよく言い、私もこれまでにそうした体験を何度か積んできました。そして母の場合も、あれは明らかに最後に家族皆に会いに来てくれ、喜ばせてくれたのだと思います。

父の実家も相当の旧家でしたが、母の実家:中澤家も兵庫の旧い商家でした。兵庫の津(港)はもともと平清盛が拓いた大輪田の泊(とまり)に始まる歴史ある港町で、その中でも中澤家は代々当主が利介(りすけ)という名前を継ぐ代表的な商家であったようです。
江戸から明治・大正・昭和初期にかけ、今の水準から考えると相当の大金持ちで、面白いのは中西家のご先祖が周りの庄屋たちと打ち揃い中澤家に借金に行った際の連名の証文が、今に残っているということです。
中西家はやがてその相手、中澤家の長女(母)を嫁に貰うことになったわけですから、時の当主、中西元蔵(私の祖父)は大いに喜んだようです。今も残っている私の実家は、神戸の大地震で相当に痛みましたが、母を嫁に迎えるために建て直した新居だったものです。

母は、子供の頃は人力車に乗って学校に通っていたと言いますし、中西家に嫁に来る時には女中まで伴って輿入れしているようですから、今となっては捉え難いような時代感覚や環境の中で育った人であったことは確かでしょう。
そんな乳母日傘(おんばひがさ)状態で育った母も、戦争中から戦後間もなくにかけては本当に苦労をしてわれわれ兄弟を育ててくれたものと思います。特に第二次大戦の敗戦直後は、父が暫く中国大陸に抑留されていてすぐには帰国できなかったものですから、食料を求め、自分の着物をかかえて田舎のお百姓の所に物々交換のために出かけていた母の姿を、私は子供心にも鮮明に覚えております。

ところで、母という人は、私に対してあるいは私のやることに対しては、本当に盲愛の人という思い出が一番強烈に残っています。


母とヨチヨチ歩きの私。表札の下には2人の出征兵士を送り出した表示が出ている

私が誕生した時には父は既に軍隊にとられていて、私は3歳になる頃までは父の顔も見たことがなかったわけですから、多分、母は必死に育ててくれたのでしょう。その後も自分の夢をかけて愛情いっぱいに育てる気持ちは変わらなかったと思います。
母から直接だったか他の誰かからだったかはっきりとは記憶しておりませんが、私が5才の頃に、当時、祖父(母の父)が信奉していました西式健康法の西勝造先生の所に私がくっついて行ったことがあったようです。その際、西先生は私の顔を見るなり「この子は将来偉くなる。その代わり金は使わせないとだめだよ」と言われたのだそうです。どうやら母は最後までその事を信じ込んでいたようで、私がやりたいことには常に父の反対を押し切ってでも応援をしてくれました。
大学時代の送金額なども常軌ではない贅沢が許される状況で、好きな本はいつでも買え、芝居や音楽会にも出かけ、皆を引き連れて飲みに行く等が可能でした。今思い返しても、どうして酒に溺れたり、賭け事に走ったりと怠惰な生活に流れなかったのか、疑問に思うことがありますが、どこかで「今に見てろ」と、父を見返してやりたいと気持ちが沸々とたぎっていたからだろうと思います。

加えて、母は新しいこと、美しいもの、そして美味しいものの大好きな人でした。事実、どこかから情報を仕入れてくるのか分からないのですが、常に先端情報を集めていて、東京に出てくる時などもこちらの知らないような事物や展覧会、店の名前等を挙げて、しょっちゅう驚かせてくれました。
料理も下手なプロ以上であったと思いますし、特にオリジナリティあふれるメニューや味付けで未だに忘れられないものがいくつもあります。

またなかなかの読書家で、実家の書棚には沢山の文学書などがありましたので、戦後間もない時期で子供の読むような本が殆ど売られていない頃には、私はヒマにまかせてそれらの本を訳も分からないままに読みふけったものでした。
谷崎潤一郎の「痴人の愛」、志賀直哉の「暗夜行路」など、小学校4年生の頃、当時は全く内容を理解できないものの、ただただ文字面を追っていたのですが、書かれていた文言は今でも鮮明に覚えています。武者小路実篤の「友情」や「愛と死」などを読んだ時には、恋愛というものそのものに恋をしてしまった想い出があります。

私は子供の頃は、絵を描くことなどが他の教科に比べ異常に成績が悪かったものですから、母が絵の先生に頼み込み習いに行かされたのですが、それが今に通じる何かであったような気がします。また、母が見ていた「婦人之友」「暮らしの手帳」「芸術新潮」などの雑誌がいつも周りに散在していました。羽仁もと子・説子ファンであった母は「婦人之友」を愛読していましたから、フランク・ロイド・ライトのデザインした建築や家具などは、口絵写真などを通じ私の中に自然に擦り込まれるようになっていました。デザインやアート、クラフト等に関わることでは、「芸術新潮」からの影響も多大であったと思います。

私は結果的に28の歳まで学生生活を送ってしまい、その後もどこかの会社に就職することもなく、成り行きのままにPAOSという会社を起こし、独自のデザイン哲学を中心に今日に至ってしまいました。それは、母の存在があったからというか、いてくれたからこそ、美しいものの効用や美の歓びを共にする大切さや意義を識った生活、そして仕事が出来るようになったのだと考えております。

ただ、母の愛情は時に常識破りな面もありました。戦後の給食が始まる前の頃、いらないと言うのに「温かい方が美味しい」と毎日お弁当を昼休み直前に、爺やに教室まで届けさせるのです。爺やは廊下の端から学校中響き渡りそうな声を張り上げて「ぼっちゃん、温く温く(ぬくぬく)でっせー」と弁当を運んでくるものですから、周りからからかわれるのがイヤで仕方がなかったのですが、今となってはこのことも良い想い出です。

大体、この爺やは名前を村上伍八といい高知の宮大工の息子だったといいますが、勉強が嫌いで家を飛び出してきて、空腹のあまり母の実家の前に行き倒れをしていましたところを助けられ、以来、感謝しながら中澤・中西両家4代にも及び仕えてくれた人でした。義理に厚い忠僕というか、私も子供の頃から本当に世話になりました。将棋も教えて貰いましたし、甲子園球場にいつも付き添いで来てくれるのは村上でした。その村上は、母のことを「御寮(ごりょん)さん」と呼び、感謝を持って懸命に働いてくれました。今の時代では到底考えられないような存在の人物ですが、母とのやりとりを見ているとそんな人間関係、上下関係が全く不思議とも何とも思えないような自然な感じでした。

母を思いながらいろいろ書いていくと際限なく永くなってしまいますので、想い出・追悼はこの辺りで終えたいと思いますが、今も改めて最期の時を迎えんとしていた母の、既に齢90を越えた老人とはとても思えないような、皺一つない艶々すべすべとした美しい肌の感触や死に顔を思い起こしながら、そろそろ筆を置きたいと思います。

私には、いつまで経っても、時々母の「元男チャーン」と呼ぶ声が聞こえてくるのです。
厳しかった父にはよく叱られ、反発して家を飛び出していた子供の頃のこと、飛び出したといっても家屋敷は結構広かったものですから私が隠れる場所などいくらでもあって、屋根と屋根の間や土蔵の陰などに身を潜めていたりしていたのですが、その時に母が私を探して「元男チャーン、元男チャーン・・・」と呼んでいた声が、まるで昨日のことのように耳に残っているのです。



投稿者 Nakanishi : 2008年07月12日 10:00