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父が逝った

2008 / 7 / 6

6月10日の火曜日に弟から電話が掛かって、「もし父に出血があれば今夜にも危ない」という突然の知らせがあり、急遽、神戸の実家に飛んで帰りました。

病院に駆けつけてみると、酸素吸入マスクを付け、脈拍は120を越える父の姿が病床にありました。もちろん意識など全くありません。大きく口を開きハァハァと激しく呼吸を繰り返していて、見守っている方が辛いようなガンバリが続きました。しかし、その後は徐々にですが脈拍も少し下がり、素人目にも小康状態か?と思える状況になりました。この間、子・孫・曾孫たちが次から次へと集まり始め、3日もすると一緒に食事をすると16人もの人数が頭を揃えている状態でした。

すぐにでも危険な状態と言われてからもガンバリ抜いてくれ、結局、14日の夕刻に黄泉の国へと旅立っていきました。15日通夜、16日告別式と日程を決めましたが、基本的に私の仕事関係などには一切通知せず、どうしても知らさなければならない友人知己の方々には連絡致しましたが、それ以外の皆さまには連絡を伏せ、葬儀は申し訳ないが身内のみで執り行うとことにしました。とはいっても我が家は本家筋に当たり、父と母は所謂旧家の長男長女の結婚でしたし、父の一族の長として縁者への面倒見は実によかったものですから、結局、親族と菩提寺を中心とする檀家筋の会葬者だけでもかなりの人数にはなりました。


国民学校入学前頃の家族写真(父母と私と弟)

もともと、われわれ親族が集まって会食を楽しんだり皆で旅をすることが大好きだった父でしたから、これだけ多くの人たちに見送られて永遠の旅路につくのは満足なことだろうと、弟たちとも話しました。
父の唯一の趣味は囲碁でしたが、これも96歳の晩年まで長生きする碁仲間はさすがに無く、寂しそうでしたから、なるべく私も話題を用意して、折に触れ少しでも多く見舞いに出かけるようにしておりました。実家の弟夫婦は、毎日訪ね実に良く面倒を見てくれていました。

この度の葬儀に当たりましては、父の遺言で「喪主は元男に」ということでしたのでそれに従いましたが、現実に私が東京に居を置いており、家督の継承も弟に譲りましたので、今後の法事や歴代の墓所の守り等は弟の家系でやってもらうことになっています。

中西家の菩提寺は、禅宗臨済宗の妙楽禅寺という今から八百年弱前に、中国から渡って来られた大覚禅師(蘭渓道隆)が若い頃に建てた禅寺です。大覚禅師は後に鎌倉幕府に呼ばれ鎌倉五山の筆頭建長寺の開基になった人で、日本で初めて禅師の称号を贈られた人でした。


大覚禅師木像

菩提寺の本山は京都の南禅寺です。我が家の家紋も丸に笹竜胆(ささりんどう)で源氏と同じですから、ご先祖様は何らかの源氏の血筋を引く人であったようです。ともあれ千年余にわたり、西国街道に面した神戸は池田という土地に住み続け、大坂城に人質を出していたり、江戸時代などはずっと近隣四ヶ村の大庄屋をやっていたようですから、歴代のいろいろ面白い言い伝えや我が家独自の習慣などもあって、これはこれで興味深いのですが、いずれかの機会に譲りましょう。



父政太郎の著した池田村の歴史と、明治に入った頃のご近所地図
家々は中西姓が多いが、政兵衛とあるのが父の祖父で、「上の中西」と呼ばれていた。

父政太郎はそのような旧家の長男として生まれ育ち、戦中・戦後の時代の荒波にもまれて来た人でした。特に地方の素封家にとり戦後の農地改革・財産税等は、生活の根底を一変させたろうと思います。通夜の席で叔母の一人が「お父ちゃんはほんとうに家を守る一生やったね」と言いましたが、確かに家を守り、寺を守り、地域を守る、その事が父の最大の使命と考えていたろうと思います。

もともと父は理系の人で軍隊でも無線有線の通信技術兵で、前線の弾の飛んでくるような場所にはあまり行かなかったようですし、戦後、相当経ってからも戦時に付き合いのあった中国人の家族が神戸の実家までたずねて来たりしていましたから、ごく平和で友好的な兵隊生活だったのだろうと思います。

ただ、私の子供の頃の父は実に厳しい人で、兄弟3人の中で、私だけは旧家の厳しい総領息子としての躾けや教育を受けました。小学生時代は、いつも悔し泣きをしながら食事をしていましたので、茶碗のご飯が涙で塩っぽい味だったことを今も思い出します。

高校生になっても、家から通える大学以外には絶対にやらないと言い続けていましたから、それに反発して東京に飛び出してきたのが今の私の原点のようなものです。最もその陰には盲愛ともいえる母の存在があったのですが、そのこと、つまりまるで正反対の父母の思いが、やがてその後のデザイン人生に大きな影響を持っていくのですから不思議なものです。

父は明治45年3月31日生まれで、まさに最後の気骨ある明治男と言える人でした。その生涯をひと言で言いますと、全てに「謹厳実直」を画に描いたようなマジメ男でした。同時に「浮利を追わず」の実質本意の生き方も、父の指針であったと言えるでしょう。

要は一切の贅沢や無駄を認めない人でしたから、年端もいかない頃の私は、家に財産が無いわけではないのに、本当にケチンボ・シブチンなどと子供心にも思ったものです。ですがこうした金銭感覚は本人の生き方でも実に徹底していまして、賭け事や遊びに金を使うなどのことはまるでないのはもちろん、保険の類には全く加入しない、クレジットカードも一切使用しない方針を生涯貫き、あらゆる支払いや決済は金額がどんなに大きくても原則現金払いを実行した人でした。

こう書いていくとまるで守銭奴のような印象を与えてしまいますが、実態は、出すべき所や必要な所には実に情深く思い切った金の使い方をする人で、「金だけを貯めたいのなら、義理欠く、恥かく、付き合い欠く」で暮らせばいいんだ、とよく話していましたが、父の人生はこれの全く逆の生き方であったと思います。

いつでしたか、若くして所帯を持った孫達の生活がまだ楽ではないことを思い、父のお誕生祝いで集まった孫9人全員にポンと100万円ずつプレゼントしてやり、われわれ息子達もそうでしたが、貰った孫達の方が一瞬唖然としたなどということもありました。

そんなことを一方でやりながら、本人自身は一切の贅沢はしない生活を守り抜きました。六法全書を丸暗記していたり、税理士の資格を持ち幅広く税法にも精通していましたので、よく親戚や近隣の人たちの相続や不動産等の無料相談にも乗り過ぎて、同じ地区の税理士会からクレームがついたとも聞きました。私がPAOSを始めてからも、どれほど父に助けて貰ったり良い助言を得たりしたか数え切れません。

私がデザインの道に入っていった頃のこの分野は、まるで門外漢の父には理解できない世界でしたし、そのような分野がまともな職業になるなどとは一般の人たちにも思えない時代でした。ですが、次第に拙著も沢山刊行され、新聞、雑誌、TVなどにいろいろ紹介されるようになり、父もようやくそれ程いい加減な職業では無いらしいと思うにいたってくれたようでした。

後年は、すっかり私の理解者にもなってくれ、中国に父母と同行した際のデザイン関係者達の歓迎ぶりなどにも、中国好きの父は実に嬉しそうでした。健康上の理由から最近は実家の近くの老人施設に入っていましたが、拙著や私について書かれた記事などを持参すると、一見淡々と無関心風を装いながら、実に丹念に読んでくれてもいたようでした。

それだけに父が亡くなってしまった今、私自身、何か新しいことにチャレンジしていく上で、いつもどこかで見てくれている人がいるとの思いの喪失感がなんとも寂しい、と感じている自分に気づいているのです。

合掌



投稿者 Nakanishi : 2008年07月06日 10:15