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好漢、長峰秀鷹逝く
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« Gマークの存立意義とこれから (3) | メイン | Gマークの存立意義とこれから (5) » ■Gマークの存立意義とこれから (4)2004 / 11 / 2さて不振企業や業種における変革策の場合も同じですが、こうした事態で最も重要なことは、設立理念や存在価値から再構築し直していくことです。そして理念ドリブンで強力に牽引していくことが大切です。 そこで1998年のGマーク民営化の場合も、新しい存立基盤としては、従来の産業振興第一から、その前に「人間振興第一」を掲げて行くことにしました。われわれ日本人とって「成熟社会におけるデザインとは何か」、それは物心両面とりわけ「心の豊かさをもたらす成長図式の策定」にありました。デザインによる文化成長や福祉成長・環境成長が経済成長を牽引していく模式を出発点に、Gマークの全てを考え直してみようということです。また、この制度の存立目標として「Gマーク商品がわが国の美的インフラ、デザインインフラを構築すること」と「デザインを楽しむ生活の充実」実現の先兵になることを明確にしました。それをもとに、Gマーク制度そのものと応募参加企業双方に経済的成果をもたらす「Gマークのマーケティング戦略」の具現化を考えたのです。 おりしも日本人の生活はバブル経済崩壊の波に洗われて、世界的にも稀な巨額個人預貯金を抱え、それを活かす消費構造への指針を持ち得ない状況にありましたから、「優れたデザイン文化で次の時代を開くというか、より成熟化した生活や社会をつくっていく」ことを指標とする必然性はあったのです。 そこで1999年には“Good Design is Good Business”を指標に掲げ、受賞作が売れる仕組みや生活や仕事の場で活かされる仕組みまで併せて考えて行こうと提唱したのです。要はいくら色や形が良いと審査委員が言ってみても、その商品が売れそこに良きビジネスが成立していかない限り、この制度そのものは存続し得ない。デザインとはそうした実利を基本としたところに成り立つという意味で、下手に名誉賞にしてしまってはならないと考えたのです。そうしたサクセスが得られれば、結果、Gマークが実ビジネスに直結し、「応募しなければ損」「受賞しなければ損」と感じさせる好環境や存在価値を整えて行くことになるだろうとも考えたのでした。 2000年は僕にとって審査委員長最後の年でした。それまで40年を越えるGマークの歩みの中では審査委員長は全員1年限りとのことでしたし、3年目を迎えるこの頃には、財政黒字化をはじめとし、本制度の先も見える状況になってきていましたので、3度目をお引き受けするに際しては、今年度限りとのお願いを久禮理事長や青木部長(現同振興会理事)に申し上げ、この20世紀最後のGマーク審査委員長をお受けしました。こういう常なる変革と進歩を求められるプロジェクトでは、同人物があまり長くやり過ぎると必ず妥協の産物が芽を吹き始め、調整が主業務になり在るべき姿を見失いがちになることは自明の理ですから、そういう長にはなりたくないと当初から考えておりました。 しかし、この3年目にもいくつかの新しい試みを実施しました。その中からどれか一つということになりますと「新領域デザイン部門」を設けたことでしょうか。今日のような技術革新が相次ぎ、時代の変革期にはつぎつぎと新しい素材や分野が生まれてきます。こうした中で所属の明らかではない新しい価値を出来る限りデザイン分野の中に取り込んで行こうと考えたのがこの分野誕生の動機でした。とはいえダボハゼ的に何でもありと考えたわけではなく、1.ITやバイオなど先端分野に関わるデザイン、2.素材・製品・環境・システム・社会的価値などとの関わりで生まれるデザインの刷新、3.歴史のある伝統産業・地場産業へのデザインによる蘇生策、この3軸を基本としました。このように新領域部門とはデザインの受け皿を大きく拡げ、将来のGマークの屋台骨になってくれるよう期待し設けたもので、デザインのマーケットクリエーション(市場創造)を願ってのものでした。 加えて審査委員の皆さんにもいくつかのお願いをしました。なるべく受け手発想を貫くため、個人の「好き嫌い」と、ユーザーにとっての「良い悪い」の言葉を使い分けて評価して欲しい、全てを東京中心のデザイン基準で見るのではなく、その地場や分野にとってデザイン発想を入れることで発展の可能性を秘めている場合は、そこに独自の判断基準を設けて欲しい等々、いわば調査の多次元尺度構成法のような柔軟性と客観性を期待したのでした。これらの諸々はデザインから日本の新しいアイデンティティを構築していけないかといった着眼大局着手小曲を慮ってのことでした。 投稿者 Nakanishi : 2004年11月02日 15:54 |
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